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NRSの歴史
1. 黎明
日本のモータースポーツがまだまだ発展途上にあった'70年代初頭、弊社高崎正博は、ナビゲーター原田康夫/山田真彦らと、自らのラリーチーム『PAIR OAL RALLY TEAM』を結成しラリーに参戦、ヨコハマにP.O.R.T在りと多少知られる存在になっていた。おりしも日本のトップラリースト11人が集まって結成されたラリーチームGROUP−11が、関東ラリークラブ連合を発足させ、その記念行事としてラリーを開催したおり、高崎はそれまでの勤めを退職しその事務局を務めた。それがきっかけで生活はラリー一色に染まったが、その後の生計を立てる手段は未だ決っていなかった。当時GROUP−11は、その実績から各メーカー関係者との深いつながりがあり、'71年に富士重工から新宿のスポーツコーナーと日産サニー神奈川からスポーツコーナーの求人があり、ニッサン車に特別なこだわりを持っていた高崎は“サニースポーツコーナー”相談員を選択した。

ラリー界も発展途上で東京/神奈川エリアでは毎週ラリーが開催され、参加も平均40〜50台で、同世代の若手(当時)では、永山政寛、金子繁夫、綾部美津雄らが巣立っていった。しかし、モータースポーツが発展すると〇〇族といった輩が出没し、車両事故が多発するに至り'74年“サニースポーツコーナー”廃止に追い込まれた。既にユーザーへの日産純正スポーツキットの販売のみならず、クルマのチューニングや 業者販売業務も展開しており、「ユーザーに迷惑をかけずに廃業」が前提条件で、最善の策として高崎正博が個人で引き継ぐことになった。

「自分の作った、ニッサン車にダンロップタイヤを履いて、チャンピオンになる」を合言葉に、仕事以外、走りに出かけない日はクルマを作る、クルマを作らない日は走りに行く日々を送る基地であった自宅ガレージ、そこがNRSのスタート地点となった。

幸運にも「B110サニーによる最強のラリー車作り」過程で修得したA型及びL型エンジンのチュンナップ技術(今や定番となったアルゴン溶接による燃焼室形状変更は元祖)や、“サニースポーツコーナー”時代に商品化に成功した、『ジュラルミン・アンダーガード』『ストラットタワーバー』『マッドフラップ』の販売も有り、まずまずの出だしであった。チューニング業もダートラ車、国内ラリー車、著名ラリーストの海外ラリー仕様車を手がけることなど、日曜祭日昼夜のない状態が続いた。




>> 前身“P.O.R.T”時代 FISCOにて

>> '73年ツールド九州
>> '74年SAFARI in 京都
2. インターナショナルラリーへの挑戦
日本車の海外ラリーへの挑戦は日産がダットサンで先鞭をつけ、その発展として、雪と氷のモンテカルロラリーへフェアレディ2000(SR311)フェアレディZ(S30)で、灼熱のサファリラリーへはブルーバード(DR410.P510.P610)やフェアレディZ(S30)、このあとバイオレット(P710.PA10)、シルビア(S110)240RS、200SXに引き継がれ『ラリーの日産』の名をほしいままとした。もう一方の雄『三菱』は、オーストラリアのサザンクロスラリーで名を成していた。

NRSの海外ラリーへの挑戦は、先ずはチューナーとしてのもので、GROUP−11の僚友、中川一/森川修がサニー(KB110)でモンテカルロラリー出場の夢を実現し、そのラリー仕様車の製作に始まった。その後、NRSカラーKB110サニーのモンテカルロラリーチャレンジは、長野県戸隠中社の極意憲雄によっても行われた。この他にもタスカエンジニアリング代表石黒邦夫が、まだ現役ドライバーとしてサザンクロスラリーに出場した時の、エンジンパーツの一部を高崎がチューニングした。チューナーとして「壊れないクルマ作り」のノウハウの習得に役立ったのは、やはりなんといっても岩下良雄/中原祥雅のサファリラリー仕様車を製作したことである。最初は“重戦車”P710バイオレットの分解、続いて“軽戦闘機”PA10バイオレットの製作、翌年はS110シルビアの製作とサービス参加、この他、ダンロップのテスト車両の製作など、「追浜」のノウハウの習得という勉強に次ぐ勉強で、興味の尽きない日々の連続だった。

ドライバーとしては、'79/'80/'81年PA10バイオレットでRACラリーへ挑戦を試みた。'79年は、欧州勢フォード・エスコートRS、フィアット・131アバルトと日本のPA10バイオレットがWRCチャンピオンを争った年で、ラリー前の車検で可変式ピロアッパーMTGが車両規則違反だということで揉め、にわかに競争力を付けてきたニッサン潰し!?が叫ばれた年でもあった。可変式ピロアッパーMTGはセンター固定式に急遽変更して事なきを得たが、操縦性が思ったところからはずれ、予期せぬ苦戦の“RACラリー”となり、結果ティモ・サロネンは勝てずシリーズ3位、高崎はリタイヤであった。'80年に入るとアウディ・クワトロが出場し4WDの時代へと突入した。参加体制も強化して、チームの清水国彦、山口の御手洗孝を加え3台で参加。走りも所々ではあったが満足に走れた箇所もあり、SSで4位のタイムを記録し、自分のペースで走りきれば、10位以内が狙えることが確認できたが、日本からコンテナ一杯の荷物を持ち、レンタカーを使い、ボランティアで多くの仲間に手伝って貰う体制で、年に一度だけ参加するのでは、路面を含むコースやラリー環境が違いすぎ、真に納得のラリーが出来ないと思うに至り、“RACラリー”への挑戦は、完走できないまま翌'81年で取りやめた。

その後WRCには、'87年にマーチ・ターボで“SAFARIラリー”に、'97年にマーチスカラシップにより、NMEマーチで“RACラリー”に出場し、“RACラリー”は果たしていない完走を目標とし、途中パンクでタイムを大きくロスしたが、A6クラス2位でフィニッシュすることが出来、一応の目標は達成できた。




>> '79年RAC Rally
>> リタイヤ直後、ギャラリーと
>> '87年SAFARI RALLY

>> SAFARIでのサービス風景
3. 苦境の時代
軽量小型のB110サニー、名車P510ブルーバードの後、ニッサンにモータースポーツに適したクルマが無く、ニッサンファンにとって辛い時代が永く続いた。'70年代はエンジンチューニングが出来たので未だしも、'80年代に入ると「排ガス問題」や「ラリーの存続」と言う名目で、ノーマル化規制がJAFより発表され、それにより生産時の車両性能差を埋め、モータースポーツをイコールコンディションで戦わせるための「車両規則」の根底が崩れ、モータースポーツ適合車を作っていないメーカー車は、圧倒的に不利な立場に追い込まれた。苦境に立ったNRSの選択肢は、1.ラリーをやめる。2.ニッサン車以外でやる。3.不利を承知の上ニッサン車でやる。の三肢であり、NRSユーザーは「重症のニッサンファン病」であることから、当然のこととして!?最もバカな自ら苦行の道を選択した。周りからは「金の無駄遣いだ」「バカなことはやめろ」と言われながらも、N10パルサー、B11サニー、EXAターボ、N12パルサーと6年も続けた。'85年にニッサンモータースポーツインターナショナル(NISMO)が設立され、難波社長の号令で「強い日産」を合言葉に、当時の主力車種1.6リットルのAE86カローラ相手に3リットルのZ31を神岡政夫ドライブで投入し、呆気なくチャンピオンを取得する。次はNRSの番だと意気込むが、再び「諸官庁との話し合いにより、ラリー存続のため」と言うことで車両規則が変わり、サスペンション以外ノーマル、安全部品ロールケイジも無しのレギュレーションとなり、豪華装備1.6リットルにも及ぶ車両重量に泣いた。翌年この車両規則は改定され、軽量化した2リットルターボのZ31で参加したが、主力車種はファミリア1.8リットルターボで、国内ラリーも低μ路での発進加速に於いて2〜3秒も勝る、4WD時代へと入っており苦しい戦いは続いた。




>> '83年B-11サニーでの全日本参戦
>> '85年N-12パルサーで参戦

>> '86モントレーでのギャラリーサービス
4. NRSとダート・タイムトライアル
 日本に於けるダート・タイムトライアル(ダートラ)の歴史は、JRSCCの塩沢三子夫によって始まった。'71年当時日本のモータースポーツは、レース/ラリー/ジムカーナの他に箱根ターンパイク・ヒルクライム(かの高橋国光らが出場し、TV放映もした)や鞍掛山のヒルクライムがあった。'71年、J.R.S.C.C塩沢三子夫はヨコハマにあったS.S.S.Aの関係で知り合いのGROUP−11本多一雄に、多摩の丘陵地に使える土地があるが・・・と相談しに石川町にあるGROUP−11の事務局を訪れた。既にイレブンメンバーで、事務所に屯していた高崎正博と永山政寛らは、当時のラリーの一部は未だスポーツ性が低く、速さで優劣がつきにくい競技内容に不満を持っており、「ラリーのSSだけで勝敗の付く競技」ダートでタイムトライアルをしたら盛んになるのでは?と提案して、日本のダートラの歴史は始まった。参加者はこの2人は当然のこと、当時の若手ドライバー、綾部美津雄、金子繁夫、大庭誠介、加勢裕二、松波登、田嶋伸博ら(出場時期に1〜2年の差はある)が出場する中で、タイヤをレーシングタイヤからウェットパターン・スポーツラジアルタイヤ迄(レギュレーションでラリータイヤ使用禁止)を使い分け、高崎正博の勝率は50%以上であった。また、これまで千葉の湯本敬P510ブルーバードのエンジン、栃木の亀山晃B310サニーのサスペンション、富山の千田久雄S10シルビアのエンジンをNRSでチューンナップしており、特に'82年、鈴鹿で開催された全日本オールスター・ダートトライアルで、NRSカラーのシルビアで出場した千田久雄が見事総合1位に輝いた。




>> '72年JRSCCダートタイム
>> '82年ダートラ総合1位の千田シルビア
5. ラリー参戦のプロを目指して
'80年代後半は、世の中全てが全開で回っていた。ニッサンもB12サニー、EK10マーチR、U12ブルーバードSSS−R、RNN14パルサーGTi−Rと次々にラリー専用車を発売し、業界シェアを三菱と二分していた。当時NRSの主力業務は、ラリー及びダートトライアル車のチューニングと日産純正部品、nismo部品、オリジナル部品の設計、製作、販売であった。 一方、ラリー参戦は、協賛もニッサンモータースポーツインターナショナル、厚木自動車部品、(後の、ユニシア→ユニシア・ジェックス、現日立ユニシア・オートモティブ)神奈川日産自動車ほか数社と「全日本ラリー出場に関する契約」を締結して、順風満帆で先行きの不安感はまったくなかった。従って吉武正博、島田親吾、大桃千秋、有輪芳明、若槻幸治郎らとドライバー契約し、業務内容の主力をかねてからの夢であった「全日本ラリー参戦」即ちチーム運営へと切り替えていった。かっこよく言えば、F1やWRCチームのように、「モータースポーツをやって食う」と言うことだ。しかし日本経済が破綻し、それ以降予算は止むを得なく徐々に切り詰められ、「ラリーのプロ化を目指す」は苦境に立っている。




>> RNN-14パルサーラインオフ式
>> '91年DCCSウインターラリー
6. チャンピオンメーカー
ラリーのプロ化を目指していた'86/'87年は、1000cc未満のAクラスと1600cc以上のCクラスと2クラスに参戦しており、'86年は吉武正博/大橋惣一郎組で、'87年は島田親吾/内山聖組を以って、K10マーチでAクラス2年連続チャンピオンを取得することが出来た。

時は流れバブル経済は'95年に崩壊、全日本ラリー選手権の出場経費の掛かりすぎを抑え、20歳代の若年層の全日本ラリーへの出場を促す目的を以って、全日本ラリー選手権シリーズに2輪駆動車だけ出場可能な第2部門(現、2輪駆動部門)が設けられた。NRSもこの趣旨に賛同し、この素晴らしきラリーを次の若い世代に残すために、K11マーチで、吉武正博と大桃千秋を夫々別のチームとして3台体制で参加した。目的は、当時中古車クラスなどと悪口を叩かれていた2輪駆動部門にあって、有力ドライバーが乗れば、1000ccでもそれなりの速さは見せられる事。激しいバトルは、参加者のみならず観るものを引きつける力があると信じ、それにより少しでもラリーが振興すればという思いからだ。結果チャンピオン争いは、最終戦最終SSまで雪崩れ込み、これを制した高崎正博/高間勇二組がチャンピオンを取得した。翌'96年は、ダイハツが2輪駆動ラリー専用車“ミラ・クロス2”を発売、ドライバーに若槻幸治郎を起用して投入。マーチ対ミラの戦いとなったが、NRSマーチ高崎正博/濱田博章組が勝ちシリーズ2連勝となった。

'98年ニッサンは、1600ccリットル当たり125PSのJN15パルサーVZR−N1を発売、NRSもマーチで育った若手ラリーストの受け皿として、A/B2クラスを戦うことにした。Aクラスのマーチも“見せるラリー”を意識して、英国に拠点を置くニッサンモータースポーツヨーロッパ(NME)から、キットカーマーチの部品を取り寄せ、改造車検を取得してブリスターフェンダー仕様のマーチを走らせた。キットカーマーチはチャンピオン争いに絡むが、最後に取りこぼし、BクラスのパルサーVZR−N1のみのチャンピオン取得となった。

'99年、S15シルビアの発売にともなって2輪駆動部門がスタートした時の思いであった、峠族、ドリフト族というクルマ好きの若者たちへの提案として、「人に迷惑を掛けずにクルマを楽しんでもらいたい」「FR車でも競争ができ、チャンピオンになれる」を証明するために、また、「同一チーム同一メーカー車による3クラス全日本ラリーチャンピオン取得」という、前人未到の野望への挑戦として、Aクラスは高崎巧/高間勇二組によりキットカーマーチで、Bクラスは勝てる実力のあるコンビ若槻幸治郎/宮城孝仁組を起用しての参加。CクラスのハイパワーFR車S15シルビアは、最も経験が深い高崎正博/濱田博章組によってのチャレンジであった。シルビアはパーツの開発に多少時間がかかり、一部のイベントをノーマルで参加したにも係わらず勝つことができ、生産車のポテンシャルの高さを証明することになった。チャンピオン争いもBクラスが最後まで苦しい戦いであったが、念願の3クラス制覇を達成し、NRSは業界から『チャンピオンメーカー』の称号を戴くこととなった。

その後、2000年はAクラスを若槻幸治郎/桝田健一組がマーチで、Bクラスを175PSパルサーで高崎巧/宮城孝仁組が取得。'01年は、マーチで高崎正博/濱田博章組がAクラスチャンピオンとなっている。




>> '96年チャンプ車を銀座で展示
>> 三年連続チャンプN-15パルサー
>> '99年Cクラスチャンプシルビア

7. これからのラリーについて
日本初WRC「RALLY JAPAN」が開催された今、一部で国内車両規則のN化が叫ばれているようだが、本来参加型モータースポーツであるラリーは、日本国の法の元、如何なるクルマも公平に、イコールコンディションで戦えることが望ましく、この観点から言えば、現B車は正統な「車両規則」といえるであろう。ラリーの発展は振興あってのものだから、WRC開催→車両のN化によってラリーが衰退しては本末転倒であり、N化と言う一つの物差しで測ろうとするから問題が出るのであって、解決策は単純で「車両規則」の二本立てである。参加型モータースポーツの代表であるナショナルラリーは、如何なるクルマも公平にイコールコンディションで戦えるB(若干の改定は必要)車で、2駆4駆隔たりのない全日本ラリー選手権シリーズ戦を設定。これに、これまでの国内競技規則の変更年度別、〜74年、〜97年迄等に分けたヒストリックカーラリーを加えることにより、モータースポーツ仕様車両の少なくなるだろう将来?に向けての布石とする。

また、ラリーのグローバル化を目指し、国内ラリーの新たなる頂点として、GroupNだけではなく、FIA車両の国内法に合わせた修正版で、WRC「RALLY JAPAN+現4WD主催者を中心とする、2駆4駆隔たりのない新しい全日本ラリー選手権として、カッコイイ「全日本WRC(ワールドラリーカー)選手権シリーズ」などと言う名称で、立ち上げるのは如何であろうか。

何れにしろ、NRSのこれからの歴史は、これら「競技車両規則」、これから発売される車両、メーカーの施策、予算などによって堀は埋められ、方向は自ずと定まってゆくが、モットーである「Enjoi Motor Sports!」の精神は忘れずに歩み続けたいと思う。


>> 全日本チャンプ“TAKU”